監督コメント
鎌倉アカデミアと私
どうして鎌倉アカデミアに関する映画を撮ったのか、ひとことで説明するのは難しいのですが、やはり私の亡父・青江舜二郎(劇作家)が、かつて鎌倉アカデミアの演劇科で教授をしていたことが大きな要因でしょう。といっても、私はそのころはまだ生まれていなかったので(私は父が58歳の時の子です)、すべては「後追い」なのですが、幼少のころから、アカデミア演劇科のOBの方たちがわが家を足しげく訪れ、にぎやかに父と歓談していたのを覚えています。また、家でテレビを見ていて、前田武彦さんや高松英郎さんの姿が映ったり、いずみたくさんの音楽がテロップとともに流れてきたりしますと、父はすかざず、
「お、これはアカデミアの教え子だ」
などと嬉しそうに教えてくれましたから、鎌倉アカデミアという名前は、とても懐かしく好ましい響きとともに心に刻まれていたのでした。
青江(後列中央)を囲むOBたち。前列右が加藤茂雄、一人おいて高松英郎、後列左端が川久保潔(1953年)
1983年、父は私が20歳の時に亡くなりましたが、その時に葬儀に関するすべてを取り仕切ってくれたのも、アカデミアOBの方たちでした。身内を送った経験が皆無だった母と私はただオロオロするばかりで、実務的な手続きは演劇科2期の木口和夫さん、若林一郎さんのお二人に、一から十までやっていただいたという印象があります。
それからも、OBの方たちにはお世話になることが本当に多く、私の最初の劇場映画『カナカナ』には演劇科2期の川久保潔さんと3期の岩崎智江さんに、ヒロインの両親役で出演していただいていますし、次の『火星のわが家』では、前述の木口和夫さんのご自宅をメインのロケ場所としてひと夏お借りしているほか、中野寛次さん、齋藤英司さんなど数人のOBの方がエキストラとして出演されています。メインキャストのひとり日下武史さんの当時の奥様が、演劇科の3期生だったという思わぬ偶然もありました。
木口和夫宅を借り切った『火星のわが家』の撮影(1998年)
さらに、3作目の『凍える鏡』の撮影の時も、ある著名な童話作家の方が所有される山荘をロケセットとしてお借りする際、交渉がスムーズに進んだのは、若林一郎さんがその方と以前、よく一緒にお仕事をされていたおかげでした。2013年に公開した初めてのドキュメンタリー映画『影たちの祭り』は、劇団かかし座のバックステージに密着したものでしたが、このかかし座も鎌倉アカデミアの演劇サークルから生まれた劇団ですし、こうしてみると、私がこれまで製作してきた映画のほとんどは、鎌倉アカデミア関係者のお力添えなくしては成立しなかったように思えるのです。また、映画以外でも、2004〜5年には亡父の生誕百年イベントを行い、2009〜10年にはその評伝を新聞に連載しましたが、そういう時にも、鎌倉アカデミアのOBの方には、シンポジウムに出ていただく、あるいは執筆のためのインタビューに応じていただくなど、ひとかたならぬお世話になっています。
青江舜二郎生誕百年シンポジウム。演劇科1期の津上忠(左から2人め)、若林一郎(その右)が参加(2005年)
くだくだしく書いてしまいましたが、要するに今回の映画は、それだけお力添えをいただいた鎌倉アカデミアOBの方たちへの、私なりのご恩返しということになるでしょうか。
「彼らが終生心の拠り所としてきた母校・鎌倉アカデミア、それは実際、どんな学校だったのだろう。閉校後も脈々と続く、師弟の深い交わりは、一体何に起因するのか―」
自分なりに答えを探し、形にしてみたくなりました。すでに何冊かの書籍は世に出ていますが、まだまだ一般への認知度は低く、また、映像作品としてその全体像を捉えたものはありません。
「それならば、自分がこれを世に出す最適任者なのではないか」
などと勝手に思い立ち、2006年5月13日、創立60周年記念祭が光明寺で開かれたその日からビデオカメラを回し始めました。
何しろ60年以上も昔の話です。亡くなっている方や病いの床にある方も多く、元気な証言者を探して聞き取りを行うのがひと苦労でした。しかしそこは鎌倉市中央図書館近代史資料室の平田恵美さんや、そこに集う「鎌倉アカデミアを伝える会」(60周年記念祭の翌年から毎年開催)のスタッフの方がたが貴重な情報を提供してくださり、大いに助けられました。そしてインタビューにうかがうと、私がかつての教授の息子という気安さもあってか、それまで直接の面識はなくとも、皆さんとても好意的に接してくださり、往事を昨日のことのように生き生きとお話になるのでした。恩師たちとともに歩んだ日々を語るかつての学生たちの頬は紅潮し、青春期の感動が人生を貫くことを教えてくれました。
鈴木清順監督宅でのインタビュー撮影(2015年)
しかしその一方、関連書籍や資料を読み進めれば進めるほど、終戦直後の日本の歴史と密接に関わりあったこの学校の興亡を、私のような浅学の者が作品にまとめられるものだろうかという疑念が頭をもたげ、また、ほかの作品製作との兼ね合いもあって、この企画そのものを白紙に戻そうかと考えたことも一度ならずありました(実際、インタビューは何度も中断と再開を繰り返しています)。それでも、取材に応じてくださったOBの方や「伝える会」の方々の励ましもあって、2015年の秋には、どうにか1本の作品に収束するメドがついてきました。
その時点で、インタビューに答えてくれた方の数は20人を超えていましたから、それを編集しただけでもかなりの長尺になることは予想できました。しかし、かつての学生たちが実際にアカデミアで学んだ70年前の、はじけるような若き日々を伝えるには、実際に若い人たちの姿を画面に登場させてみるのが効果的ではないかと思いつき、演劇科の学生たちが演じた「父帰る」と「春の目ざめ」を再現映像として入れ込んでみました。この再現に全面協力してくださったのが、劇団かかし座の若き俳優陣です。
ふたつの作品の収録に際しては、配役を決めるオーディションから複数回の稽古、本番と、2016年1月から2月にかけ約1ヵ月が費やされました。この劇団は、日々、複数の班が公演のため国内外を忙しく飛び回っているため、10人近い俳優のスケジュールを合わせるのはなかなか難しいのですが、
「親父が学んだアカデミアのことであれば」
という代表・後藤圭さんの嬉しいひとことで、まとまった時間を割いていただくことができました。
「春の目ざめ」再現映像の演出風景。撮影は劇団かかし座の稽古場で行われた(2016年)
この映画のクランクアップ(撮影終了)は2016年6月4日、光明寺で行われた創立70周年記念祭の日でした。60周年記念祭の日からちょうど10年が経過したことになります。あっという間のようにも思いましたが、60周年の時には元気にシンポジウムに出席されていた前田武彦さんら4人がすでに他界されているという事実に、無常な時の流れを感じました。また、70周年記念祭に車椅子で出席されていた鈴木清順監督までもがつい先日お亡くなりになり、それ以外にも、インタビューに応じてくれた方がすでに3人、鬼籍に入られています。
「もっと早く取りかかっていれば」「もっと早く作品を完成させていれば」
と、悔やまれるばかりです。
とにもかくにも、こうして、のべ10年におよぶ撮影は幕を降ろし、編集に半年をかけ、ついに作品は完成を見たのでした。私がこれまで手がけた中で、もっとも長期間におよんだ映画であるのは間違いありません。
光明寺の本堂、開山堂、書院の三箇所で催された創立70周年記念祭(2016年)
文頭で、この映画を撮ることになったきっかけは、亡父・青江舜二郎がうんぬんと書きましたが、作品中ではその辺の事情にはほとんど触れていません。青江はあくまで、大勢いた教授講師のひとりという扱いです。私が幼少期から見てきた父とOBの方たちとのつながりはあくまでワン・オブ・ゼンであり、鎌倉アカデミアでは、学校がなくなったあとも、師弟の深い交わりがそこかしこで、当たり前のように続けられてきたからです。二代目校長の三枝博音しかり、考古学者の三上次男しかり、歌人の吉野秀雄しかり。そうした人間的な結びつきは、教師だった者と学生だった者双方にとって、まさに生きる糧(かて)だったのです。
鎌倉アカデミアは、終戦直後という、平時とは真逆の混沌の時代だからこそ奇跡的に生まれた学校なのでしょう。そして、「教師と学生とが、同じ視線で真理探究を目指す」という大いなる理想を掲げ、その理想の故に現実との戦いに敗れ、潰れてしまった学校なのかも知れません。しかし、そこに学んだ者たちは90歳近くになっても、その志(こころざし)を心に持ち続け、生き生きと人生に向き合っています。その姿を是非、この作品で確かめていただき、しばし「自由」「教育」「人間の結びつき」などについて、思いを巡らせていただけたらと思います。
大嶋 拓 Oshima Taku (構成・撮影・編集・監督)
1963年、東京都生まれ。1970年代初頭に大ヒットした「仮面ライダー」「帰ってきたウルトラマン」などの特撮テレビ映画に強い影響を受け、小学校3年のころから8ミリフィルムカメラを回し始める。1988年、慶應義塾大学文学部人間関係学科人間科学専攻卒業。同年、『ドコニイルノ?』がぴあフィルムフェスティバルに入選。1994年、初の劇場用長編作品となる『カナカナ』を監督。モントリオール、ベルリン、ウイーン、シドニーなど多くの国際映画祭に招待され、「新感覚の日本映画の出現」と注目を集める。作品はほかに『火星のわが家』(2000・東京国際映画祭正式参加)、『凍える鏡』(2008)など。2014年には初のドキュメンタリー作品『影たちの祭り』が、厚生労働省社会保障審議会特別推薦
児童福祉文化財に選定される。著書に『龍の星霜 異端の劇作家 青江舜二郎』(2011・春風社)。